馬騰,字:寿成,?年?211年涼州軍閥の頭首の1人。馬超、馬休、馬鉄の父。曹操の董卓討伐の号令に応じた諸侯の1人。董承の曹操暗殺計画にも参加するが、露見した時は西涼に逃れていた。赤壁の戦いの後、曹操は馬騰を討って後顧の憂いを絶とうと画策。馬騰は謀略と知りながら上京し、黄奎[コウケイ]と謀って逆に曹操を討とうとするが失敗。同行していた馬休、馬鉄と共に討たれた。
马腾,扶风茂陵(今陕西兴平)人。汉末群雄之一。是后汉伏波将军马援的后代,三国蜀汉名将马超的父亲。原是西汉时代伏波将军马援后人,马援传到马肃时,马肃和姜女结婚,生下了儿子马腾。一向以来,马腾忠于汉室,早期曹操控制朝廷时,汉献帝写下了衣带诏,约刘备、马腾等人起兵讨伐曹操。事件失败后,马腾回到西凉拥兵自重。后被曹操引诱入京杀害