張郃
ちょうこう
字:
儁乂
しゅんがい
?年?231年
官渡の戦いで袁紹に従軍。烏巣[ウソウ]が曹操に急襲されると、郭図の策に従い高覧と共に曹操の本営を攻めるが敗退。郭図に責任をかぶされ、やむなく曹操に降った。その後、魏将として各地を転戦。漢中の張魯を攻めた際は夏侯淵と共に先鋒となる。劉備との漢中攻防戦では張飛に大敗し、曹洪に斬られそうになった。諸葛亮が北伐を起こすと、街亭で馬謖を破るなど蜀軍を苦しめる。
张郃(?-231)字儁乂,河间鄚(今河北任丘北)人。三国时期魏国名将。官渡之战时,本为袁绍部将的张郃投降了曹操,并在曹操帐下多立功勋,于曹魏建立后加封为征西车骑将军。诸葛亮六出祁山之间,张郃多次抵御蜀军的进攻,于公元231年在木门道被诸葛亮设伏射死。连诸葛亮都承认张郃勇武过人,是蜀国大患。后谥曰壮侯。后世将其与张辽、乐进、于禁、徐晃并称为曹魏“五子良将”。
东汉末,应募参加镇压黄巾起义,后属冀州牧韩馥为军司马。初平二年(191年),袁绍取冀州,张郃率兵投归,任校尉。后因拒幽州割据势力公孙瓒有功,升宁国中郎将。建安五年(200年),官渡之战中,建议袁绍派重兵增援乌巢未被采纳。袁军因而大败。张郃反遭诬陷,愤而投奔曹操,任偏将军。此后,随曹操攻乌桓,破马超,降张鲁,屡建战功。继与都护将军夏侯渊留守汉中。建安二十年(215年),率军进攻巴西宕渠(今四川渠县东北),被蜀将张飞击败。后任荡寇将军。建安二十四年(219年)正月,从夏侯渊迎战刘备军于定军山(今陕西勉县南),当夏侯渊战死,全军面临覆没之际,张郃代帅,率部安全撤退。后屯陈仓(今宝鸡东)。