諸葛恪
しょかつかく
字:
元遜
げんそん
203年?253年
呉の官僚。諸葛亮の甥。聡明さを孫権に愛され、太子?孫登の学友となる。陸遜の死後に実権を握り、孫権が死ぬと孫亮を即位させた。その直後、魏の司馬師の攻撃を受けるが撃退に成功。余勢を駆って合肥新城[ガッピシンジョウ]を攻め、今度は夏の炎暑で敗退。敗戦の責任を他になすりつけて身の安全を図るが、孫峻、滕胤らに暗殺された。
诸葛恪(203-253)字元逊,琅邪阳都(今山东沂南)人。三国时期吴臣,蜀丞相诸葛亮之侄,吴大将军诸葛瑾长子。从小就以神童著称,深受孙权赏识,弱冠拜骑都尉,孙登为太子时,诸葛恪为左辅都尉,为东宫幕僚领袖。曾任丹杨太守,平定山越。陆逊病故,诸葛恪领其兵,为大将军,主管上游军事。孙权临终前为托孤大臣之首。孙亮继位后,诸葛恪掌握吴国军政大权,初期革新政治,并率军抗魏取得东兴大捷,颇孚众望。此后诸葛恪开始轻敌,大举兴兵伐魏,惨遭新城之败。回军后为掩饰过错,更加独断专权。后被孙峻联合孙亮设计杀害,被夷灭三族。