関平
かんぺい
?年?219年
曹操の下を脱した関羽が劉備と再会する際、関羽と出会い、劉備の仲立ちで関羽の養子となる。新野の戦いでは劉封と共に諸葛亮の火計を成功させた。劉備が益州に侵攻すると従軍するが、龐統が戦死すると荊州に援軍を要請し、諸葛亮らが益州に向かうと、代わって荊州に残り関羽を補佐した。関羽が襄陽に侵攻すると従軍し、活躍。しかし、背後を孫権に急襲され、麦城で関羽と共に捕らえられ刑死した。
关平(?-219),东汉末年武将,为名将关羽的长子,在关羽失陷荆州时和关羽一同被斩。关平的形象在后世由于民间对关羽的崇拜而渐渐丰满起来,很多地方的关帝庙在供奉关羽的同时也供奉关平、周仓两员大将。此外,民间通常认为他是关羽收养的义子而非亲子。
关圣帝君之长子也。名平,字坦之,祖籍山西省河东解梁州常平村宝池里。生於汉灵帝光和元年戊午(西元一七八年)五月十三日。年少时随帝君任事,躬矢石,临阵不离左右,被执於汉献帝建安廿四年己亥岁(西元二一九年)十二月初七日,同帝君於临沮(在今湖北省当阳县东北)全忠孝,享年四十有二。妻赵氏,闻麦城破,携八岁子樾,避难於安乡,改姓门。迨晋平吴后,始携子出,复关姓。宋崇宁元年(西元一一○二年)封为武宁侯,宣和五年(西元一一二三年)加封威显二字,明万历廿四年(西元一五六九年)封竭忠王,鸾门尊称九天威灵显化大天尊,并因关圣帝君膺登玉皇之故,敬尊为太子。