郝昭
かくしょう
字:
伯道
はくどう
?年?229年
魏の武将。司馬懿の推挙で陳倉の守りにつく。諸葛亮の第2次北伐に抗戦し、諸葛亮が開発した兵器を焼き払って城を守り抜いた。王双が来援し、蜀軍が一度撤退した後、重病にかかる。再度来襲した蜀軍の攻撃で陳倉城に火の手が上がったと聞くと、病状が悪化し死亡した。
郝昭字伯道,太原人,为人雄壮,身长九尺,猿臂善射,深有谋略。为杂号将军,镇守河西。经曹真举荐郝昭守陈仓,迁镇西将军。诸葛亮大军逼近陈仓,先使魏延攻打,但连日无功致魏延说此城难打,诸葛亮大怒欲斩。郝昭的同乡靳详请缨游说郝昭投降,但为郝昭厉绝归降。诸葛亮强攻,激烈的攻城器械城后,郝昭以三千拒守诸葛亮十万,相持二十余日,诸葛亮无计可破。当诸葛亮斩魏的援军王双后,因粮尽而乘机退兵。曹睿下诏嘉许郝昭的善守,赐爵关内侯。后再引见慰劳,正想重用时郝昭病亡。
魏杂号将军。少入军为部曲督,数有战功,为杂号将军,遂镇守河西十馀年,民夷畏服。太和元年,西平麹英反,杀临羌令、西都长,遣将军郝昭、鹿磐讨斩之。后驻陈仓,蜀相诸葛亮围,昭乡人靳详於城外遥说之,昭言愿以死报国,坚决不降。昼夜相攻拒二十馀日,亮无计,救至,引退。诏嘉昭善守,赐爵列侯。及还,明帝引见慰劳之。后病亡。