凌統
りょうとう
字:
公績
こうせき
189年?237年
呉の武将。15歳の時、黄祖との戦いで父?凌操が甘寧に射殺され、死力を尽くして遺体を収容した。208年、投降してきた甘寧が黄祖を討った祝勝会で、父の仇を討つべく甘寧を殺そうとしたが止められる。逍遥津[ショウヨウシン]の戦いでは身を挺して孫権を守った。濡須口攻防では張遼と互角に戦うが、曹休の矢を受け落馬。そこを楽進に狙われるが、甘寧に救われて和解した。
凌统(189-237,一说217),字公绩,吴郡馀杭(今浙江余杭)人,三国时期吴国名将。凌操之子,官至偏将军。
凌统年方十五岁,孙权遂拜凌统为别部司马行破贼都尉,摄继父兵。后孙权复征江夏,凌统为前锋,斩黄祖将张硕,搏战登城,大获全捷,封为承烈都尉。不久凌统与周瑜等攻曹仁于南郡。其时甘宁在夷陵,为曹仁别军所围,周瑜用吕蒙之计,留凌统以拒曹仁,周瑜自分军救宁,反败为胜,因功迁为校尉。凌统虽在军旅之中,却亲贤接士,轻财重义,又爱士卒,士卒亦敬慕凌统。在赤壁之战中吓破曹操军,并从此战中杀敌七千有余,威名大震。
后从孙权往合肥,为军中右部督。时全军出阵,前部已发,魏将张辽等却忽在津北出现,孙权遭围;凌统便率领亲近三百人攻入敌围,扞护孙权突走。凌统复还奋战,左右战士尽死,自身亦被创,仍攻杀数十人,待孙权无事方还。于是拜为偏将军。嘉禾六年,凌统病卒,时年四十九。孙权闻之,哀不能自止,数日减其膳,每言及凌统皆流涕,抚育其孤,又使张承为之作铭诔。凌统年方十五岁,孙权遂拜凌统为别部司马行破贼都尉,摄继父兵。后孙权复征江夏,凌统为前锋,斩黄祖将张硕,搏战登城,大获全捷,封为承烈都尉。不久凌统与周瑜等攻曹仁于南郡。其时甘宁在夷陵,为曹仁别军所围,周瑜用吕蒙之计,留凌统以拒曹仁,周瑜自分军救宁,反败为胜,因功迁为校尉。凌统虽在军旅之中,却亲贤接士,轻财重义,又爱士卒,士卒亦敬慕凌统。在赤壁之战中吓破曹操军,并从此战中杀敌七千有余,威名大震。